2020年07月18日(土)

7月に入って考えたこと

7月に入って考えたこと

7月に入り、東京をはじめとした首都圏に留まらず新型コロナ感染者の新規感染者報告が徐々に増加の一途をたどってきています。
世間では第二波という言葉が度々浮かび上がるようになってきました。
2020年の幕開けからこの新型ウイルスの世界的パンデミックは我々の日常に多大な影響を与えてきております。
社会は混乱し、人々は不安になり、生活が一変してしまいました。
しかし、それぞれのコミュニティでルールを設けて個人でできることを自覚し、今はできる限り冷静に日々を送ろうとしているところでしょうか。
未知のウイルスではありますが、すでに分かっている情報、かなり有力な情報、種々ある中で我々はできる限りの対策をとっております。
大人のみならず子供達の生活も随分変わってきました。
無邪気な子供たちは大人の不安をよそに変わらず日々を天真爛漫に過ごしているのでしょうか。
いいえ、当然のことながら子供達もこの不穏な社会情勢に脅かされています。
彼らには彼らなりのコミュニティがあって、この変化に一生懸命に彼らなりに適応させようとしております。

このパンデミックの渦中で誰しもが色々な思考をしているでしょう。
仕事、家族、未来、数限りなく無限に。

人間が人たる所以は社会性から来ると私は思います。
生まれ落ちたその時、人間はただの動物です。
食物を摂取して空腹を満たし、排泄をし、眠り、目覚め、食べて、を擦り返すだけです。
そして、家族単位の集団の中で社会生活というものを学んでいきます。子供は乳を飲むように与えられるルールを吸い込んでいきます。
それに従って育っていくのです。
でも、だんだん学校、地域、友人、など属するコミュニティが増え、メディア、書籍、教育など保護者以外から吸収していく学びも増えると、自我の確立とともに自立した思考をし始めるのです。自分は何のために生きるのか。
自分は何によって生かされるのか。
自分は何者か。
潜在的に生まれる疑問に答えを見出そうとする。
自分がしたいこと、社会あるいは親や教師がしてほしいこと、してはいけないこと、やりたくないけどしなければいけないこと、それらが自分のためなのか、社会のためなのか、はたまた親のためなのか。
当然、そこには時として齟齬が生まれます。
家族は同じ屋根の下で生活してますし、友達や教師は同じ学校に通ってますが、同じ人ではない以上、絶対に同じ思考はしないからです。
思春期に至るとその齟齬に苦しむ。
なぜなら、すべて正しいように映るからです。
自分のためであろうが、社会のためであろうが、親のためであろうが、誰かに寄与することは正しいように見えるのです。

大人は仕事や家族、地域のために活動します。
朝眠くても仕事があるから起きねばならないし、給料が入らないと食べ物が手に入らないからお金のために働きます。
子供を育てるために家庭を守り、地域のための役割を担います。
したくなくてもやらないといけないと思って多くの我慢や努力をします。
自分の欲求は最優先ではありません。それが大人です。

特に日本人は「滅私奉公」などという言葉があるくらいにその傾向が顕著です。美徳とすら思われる節があります。

でも、人間の脳は実は怠け者でなるべく楽でいることを好みます。
実際のところの人間の原始的な欲求は、好きなものを好きな時に好きなだけ食べて、眠たい時に目が覚めるまで眠る、それ以外の時間は寝転がって手足を動かさないでいたいものです。
社会に属した人であるがゆえに、家族や仕事や地域が必要とする役目を自分に課して活動しなければならないのです。
そのことを何も知らなかった赤ん坊のうちから少しずつ大人になるまでに学んでいくわけです。

日曜日、祝日、あるいは公休に限らず、1日家で朝からだらだら食っちゃあ寝すると罪悪感を少なからず感じてしまうのは私だけでしょうか。
人として間違ったことをしている気持ちになるのは。
多分、同じ経験を多くの人がすると思います。
これは大人に限らず子供もきっとそうだと思います。
朝早く起きるのは辛い。
机にかじりついて勉強ばかりしているのは辛い。
トイレに行きたいのに次の休憩時間まで我慢するのは辛い。
喉が渇いているのに今は飲食する場所でも時間でもないから我慢は辛い。
学校、職場、公共の場、で大人も子供もたくさんの我慢をします。

でも、我慢ばかりしているわけではありません。
時々転がっている喜びを成長の過程で経験として知っています。
社会での成功と名誉、金銭的な報酬とそれによって得た価値あるもの、豊かな生活。
そんな取ってつけたようなものが必要でしょうか?
友人との会話、美味しい食事やおやつ、乾ききった喉を潤す水、お腹を抱えて笑えるようなエピソード。
数え上げたらキリがなく多くの喜びはそこら中に転がっていて、それを喜ばしいものだと知ることも育ちの過程で学びます。
だから、生きることや社会で活動することを受け入れられるのです。

外出自粛生活で数々の日頃我慢したり努力したりすることから解放され、怠惰で不規則な生活をしてしまうことがありました。
自粛が緩和されても半年前とは行動範囲もスケジュール管理も変わってしまっています。
ぎっしり詰まったタイムテーブルではないこと、休日に予定がなく気がついたら1日が終わっていたり、家にあるもので簡単で栄養バランスからは程遠い食事をしたり。
そんなことに罪悪感を覚えることがあります。
誰に対してでしょうか。この罪悪感は。
社会に対して
親に対して
自分に対して
多分、今までの生育歴で培ってきた社会人としての規範みたいなものに対してでしょう。
このうっすらとした心の底に溜まっている後ろめたさを見つけましょう。
我々は結局は動物なので欲求通りに脳は怠惰であることを望むもので、それは自然なことです。
ぼんやりとした訳の分からない不安に潰されないようにいましょう。
それは漠然とした目に見えない恐ろしいものではなく、ちゃんと明確な姿をした誰もが持つありきたりな罪悪感です。
社会人として正しくあるべき、という規範に心を持って行かれないようにしましょう。
今も充分にちゃんとなすべきことをできています。

というわけで、休日や余暇にはゴロゴロし、自分以外の人のことなど考えず、うたた寝したりぼーっとしたり、で過ごすことを自分に許すことにします。